幸せに対する一考

こんばんは。ぬっこです。

 

以前の私はいつも、身の回りの幸せを探していた。言うなれば「小さなHappy探し」

 

【先日の記事】

幸せは探すものじゃなく感じるもの - 柳に風 リターンズ

 

先日も書いたけど、幸せだなーって後から来る感情で、今、自分がニュートラルな状態でそこから「さぁ、幸せになる事を見つけるぞー!」ってやっぱり違和感。

 

相当無理してたんだなって。

私の疾患は(双極性障害Ⅱ型)軽躁と鬱を繰り返す病気。生涯飲み続ける薬を調整した上で常に自分の心理状態をモニタリングしながら暮らしていく、といういわゆる一過性の完治するものではなく「一生付き合っていく」疾患。

面倒なものを背負ったもんだ。

 

振り子みたいなもので、躁状態にポーンと上がった時は大抵同じだけ(いや、それ以上)にずーんと鬱状態に落ちてしまうのが特徴なので、いかに、ニュートラルな状態でいられるかが私の課題。

 

とはいえ、躁状態って言うと、「散財して家族に内緒で高額のローンを組んで高級車を買ってしまった」とか、「攻撃的になり家族に暴言を吐いてしまった」とか、結構周囲の人に大きな迷惑をかけることが多くある中、分かりやすい私の躁のエピソードはほとんどなくって。

 

みかんが食べたくて夜中にふと伊豆のみかん畑まで車で3時間かけて行って朝イチで買ってきちゃいました!とかあったので、それが軽躁かと言われたらそうかもな~っと言うぐらいで。

(自分では気付かない、忘れた中にもっと躁状態のエピソードあったのかな)

 

周囲には行動力あるエネルギッシュな人に見えてたのかなって思います。性格の一部だと言われるとそうなんだけど 。それが普通の人っているじゃない?

 

ただ、一方で満員電車で過呼吸になってぶっ倒れたり、無気力になって寝込んでしまい社会生活を営むに支障ある状態もあったので、やっぱりそのエネルギッシュなスーパーポジティブマンの部分が軽躁だったんだと思います。

 

確か、仕事に行けなくなった時は「やれる人がいないので私が仕事を頑張らなきゃ」とオーバーワーク気味でした。それが軽躁かな。

 

その軽躁でも薄氷の上を歩いてるみたいなもんで、だから毎日Happyを探して回ってたのかも。鬱に落ちるのが怖いから。1日何事もなく暮らせた、ありがとうって思ってました。

 

鬱の時って身体にも心にも重たいウェイトを付けられてるみたいで、起きるのも嫌なら何ならトイレに行くのも億劫。食事は、白だしと水を混ぜたのをご飯にかけて流し込んでました。お腹は減るけど食べるのも厭う感じでした。

 

鬱のが長かったなぁ。

 

まるで治った過去の事のように書いているけど、ホントは今だって薄氷の上なのかもしれない。揺さぶられる大きな出来事には弱いんです。災害とか、引越しなんかの環境の変化とか。多分。だってニュートラルで過ごすのがBESTなのに、強制イベント発生みたいな感じで揺さぶられる出来事は人よりもストレスに違いない。

 

今でもちょっとしんどいかも?と思う時は、多めに寝てたりして調整してたりして(あれ、それちょっとした鬱?)

 

幸せだなーって普通はふと感じるもので、わざわざ探さなくても意外と自然に感じてるもの。だからね、幸せを必要以上に追い求める必要もなければ、その逆で幸せじゃないな、と思うことも時にはあってもそこに無理に視点を向ける必要も無い。

 

有り体に粛々と朝から晩まで過ごすこと。

人間の生活の中でそんなにもキラキラした出来事毎日起きないって。多分。

毎日がキラキラしてたら、きっとそれは無理してそう思おうとしてるんだと思う。

 

それを否定はしないけど、「何かいいことないかな~⤴」ぐらいが多分丁度いいんじゃないかな。

 

そんなニュートラルな生活バンザイの私なりの幸せに関する一考。