黄昏時の振り返りの作業

実は昨晩から軽井沢に帰ってきている。
また今日用事を終えたら実家に帰るのだけれど・・・
今朝は生憎の雨、濃い霧でカーテンの外は真っ白だ。
場合によっては別に慌てて帰る必要もない。
霧に隠れた近くの山のカラマツが黄色く紅葉しているのも見たいし。
そもそも予定なんてあってないような隠遁生活。

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話は変わるが、秋の夜は釣瓶落とし、と言う。
劇場の趣味の悪い刺繍がいっぱいついた緞帳が
時間が訪れるとあっという間に下りてくるように、
スルスルと闇と冷気が訪れてくる切ない瞬間が好きで
わざと夕暮れ時に散歩に出かけたりする。

私の場合散歩と言ってもドライブなのだけれど。



温かい飲み物をお供に空を見上げて夕暮れを待つ。
太陽が山の端に沈むと、空が茜色から藍色へと変わり始めて
そして気付けば辺りが闇に包まれるまではほんのわずかな時間。
何かのショーを見るみたいにしてただ空を眺める。
散歩していた子どもが前を通りすぎながら
何しているのかを私に問うたけど、微妙な笑みでごまかす私。
黄昏時を満喫中なんて、こんなはなたれ小僧に分かってたまるか。

贅沢な時間だと言えばそれまでだけど、
現実的に考えれば、非常に生産性の低い時間でもある。
だってその間、陽だまりを見つけて
目を細めてひなたぼっこする猫みたいになーんにもしてないんだから。

そろそろ世間でシニアと呼ばれそうな年齢の父は酔うといつも私に謝る。
自分を振り返り、過去を悔いている事があるからだ。
謝られても、もう過ぎた時間は取り戻せないし
残念ながらその時間は私の一部として
もうとっくに取り込まれてしまっているので私自身にもどうにもならない。
別に父を許せない過去なんて私にはない。

歳をとると人は振り返りを始める。
えてしてそこにあるのは悲哀。
子は親の背を見て育つと言う。そして逆に親はなくとも子は育つとも言う。
そこに責任があるかといえばあるのかもしれないし、ないといえばないんだと思う。
だから私はその呂律が怪しい謝罪を黙って聞き続ける。
つむぎ出されてくる言葉は父親から子どもに対しての謝罪であっても、
それは父と子とかそういう狭義の話ではなく、
ただヒトとしての振り返りの作業なのだろうから。

還暦を一区切りとするのであれば、私はちょうどその半分。
その時点で自分を振り返っている私は恵まれているのかそうでないのか。
休職がそろそろ1ヶ月を迎えようとしているところ。
こうしてぱったりとストライキを起こして現実から離脱した私だが
別に現実を見ぬふりをしている訳でも逃げている訳でもない。
ただそこにある時間を見つめて過ごしているだけだ。
時間の概念というのは歳を重ねる毎に速く思えるように思う。
考えなければいけないこと、日々の仕事、日常、
それらをこなすうちにあっという間に1時間が過ぎ、1日が過ぎ、1ヶ月が過ぎ1年が過ぎ。
そうしてふと気付けば自分が思う以上に自分が年齢を重ねていたりするものだ。
本当なら時間なんて考える余裕もないはずの忙しいさなかの今、
こんな風にいろいろ想い起こしたり時間の流れを意識して生活出来るこの期間は、
私の人生にとってもとっても貴重な時間なんだと思う。

いつまでこの隠遁生活を続けるのか、いつから始動するのかはまだ未定。
始動するまでのこの充電期間を、充電らしく有意義に過ごしたい。
肌寒い冬の訪れの日に、なぜだか感傷的な私。