色のある世界で小さな幸せを見つける

昨晩から久しぶりに10年来の友人宅にお世話になっている。
そういえば、都内では、都知事選があるんだったっけ。
ニュースでしか見ない顔が、選挙のポスターに並ぶのはなんだか変な感じだ。
 
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久しぶりに会った友人は、私の顔を見て驚いた顔をした。
別段変わったつもりもないのだが、
「妖怪」「コロボックル」「如来」・・・ってどうなんだ。そんな私。
 
私がやらなくて誰がやる!という生活をしていた頃、
それはそれで充実していた。
だけど何かをすり減らして何かと戦っていたように思う。
突っ張ってやっていないと潰れてしまいそうだったから。
まっすぐに、猪突猛進だった日々の顔と比べて
今の私はそんなに変わったんだろうか。
 
DVDを見て、銭湯に行き、夕食を腹十二分目に食べて、友人のお母さんと馬鹿な話をして大笑いし
気がついたら、2011年のエープリルフールは嘘をつくこともなく、淡々と過ぎていこうとしている。
 
友人は私がひどく荒んで大変だったときを知っている。
あの時は大変だったね、でもそれがあるから今があるんだね、と笑いながら話が出来ること。
そんな時間を過ごすこと自体が「小さな幸せ」であることを私は知っている。
周りが見えなくなるほど突っ走る日々というのを充実していると思うかもしれない。
確かに充実しているとも思えるしそれはそれでひとつの生き方だとも思う。
正確には、私はそういう生き方をしようと思っていた時期があった。
だけど、突き詰めてまっすぐに進もうとすることで、どんどんそぎ落とされていく周りの景色、色。
気がつけば単色の世界だ。
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今、私の生活は色に溢れている。
あれも楽しそう、これも。今度はこれをやってみたいな。あそこにも行こう。
人間の生活というのは、ひとつだけじゃない。
ご飯を食べもするし眠りもする。馬鹿話に笑いころげることもあれば、映画に涙することもある。
それにその生活の中にある夕日の紅色、闇の漆黒、空の青、朝日の白い光、春の咲き始めた花の黄。
それらの雑多な色があってこその生活だと思うし、幸せなんだと思う。
 
あぁ、それにしてもなんてきれいな夕日なんだろう。
当然友人と銭湯の帰り道にこの夕日に向かって車を走らせながら
太陽にほえろ!」のテーマを熱唱したことはいうまでもない。
 
うん。もう大丈夫。なんとなくそう思える。