粛々と、淡々と

今、どこにも所属していない私は、
いつ起きていつ寝ようが、どこへ行こうが
どんな髪型をしてどんな服装をしようが自由だ。
でも不思議な事に、何をしてもいいんだ、という状況に置かれると
意外と地味に淡々と過ごしている。
多分それが私の欲した時間の過ごし方なんだと思う。
 
起きて一回り掃除機をかけたり拭き掃除をしたりして
そのあとはどこかしらの開拓作業。
天気がいい日は散歩したり、寒い日は暖かい部屋で
「の」の字を描きながらじっくりとハンドドリップで淹れたコーヒーを飲みながら
ちくちく着物を解いたり。
翌日筋肉痛必至で、ひたすらフライパンを揺すってほうじ茶を炒ったり。
夜は毎日せっせと隣町のプールに出かけてウォーキング。
そして日曜日は欠かさずNHK大河ドラマを見る。
 
こうして書くと、とても三十代女子の生活とは思えない、
まるでとうの昔にリタイヤし達観した老人のような生活だが、
今のところ、これがぬっこの生活である。
でも…大河ドラマなんて正直ちゃんと見たことがないのだ。
まともに1クール見たドラマなんて多分高校時代ぐらいが最後じゃなかろうか。
それだけ忙しく動き回っていたのだろうけど。
 
橙から淡いピンク、そして薄紫、藍色、漆黒。
点在する家や木が影絵みたいに浮き上がりその後ろには地平線にすとんと落ちていく夕日。
藍色に染まり辺りが暗くなり始める頃には、金星が明るく輝き始める空。
柿の木に集合して、眠る前のひとときに談笑中の沢山のスズメ。
そして、そのじわりじわり、ゆるりゆるりと過ぎゆく空間に佇む自分。
こんなにじわり、じわりと過ぎていく時間を肌で感じながら
空を眺めた事など今まであっただろうか。
 
働こうと思えば働けない事はないと思う。
今までの私なら多分真っ先に職探しを始める所だ。
だがあえて私は今動かない。
医者には春ぐらいには始動したら、と言われたけれど
いつまで休むのか、どれぐらい休むのか、期限は決めていない。
加えてこれから先何をするのか、同じ仕事に戻るのか否かすらも決めていない。
 
ゾウの時間・ネズミの時間、という本がある。
ネズミの鼓動は0.1秒に1度、ゾウの鼓動は3秒に1度。
でもそこに過ぎゆく物理的な時間は変わらない。
違うのは今そこにいる自分自身の感覚だ。
寝食を惜しんで働くのも自分。
今暮れゆく空を飽きもせずに眺めるのもまた自分だ。
 
私が部屋の中をくるくる動き回るのを見て、母は「コマネズミのよう」と言う。
だけど、私自身はそんなにあくせく動いている感覚はない。
かつて友人はブレーキの付いてないスポーツカーだと言った。
多分動き回るのは性分なんだと思う。
足りないのは、前へ前へと突き進む中でふと周りの景色を見やる事。
物理的に過ぎゆく時間と自分の感覚的時間の感覚を時々測る事。
贅沢パンの残りをポケットに忍ばせて
川の片隅のねぐらに戻ってきたカルガモに千切っておすそ分けしていた時に、
あぁ。そういう事か、とはっと気が付いた。
 
それにしても何かに気が付く瞬間というのは突然訪れるものだ。
淡々と、粛々と過ぎゆく時間を噛みしめてまた私は新しい明日を迎える。