農耕民族と狩猟民族と

恋をするということは非常にエネルギーを必要とすることだ。
今までずっと、常に私は誰かに恋をしていたような気がする。
それが相手にとって私がただの暇つぶしであっても
私自身の寂しさを埋め合わせるだけであっても
動機や背景は別にして、誰かに恋をしつづけていた。
そんな走りつづけてきた自分が立ち止まっている。
立ち止まって、後ろを振り向いて、そして考えている。

先日友人と、酔ってとりとめもない話で長電話をしていた時
恋をするということを農耕民族と狩猟民族に例えたことがあった。
狩猟民族の場合、獲物を得るために近づきどうやって獲得するのか戦略を練り、
そして、様々な方法を駆使して自分からその獲物を倒す為に努力し近づいていく。
獲物を倒せばその一連の行動は終了し、
また新たな獲物を得るために自分から行動を起こさなければいけない。
それに対して農耕民族の場合、種を蒔き、芽が出て育つのをじっと待つ、
受動的でもしっかり肥料を与え、水を与え、雑草を取り除く努力をすれば
その作物は必ず収穫できる。
その収穫が終わってもまた次の年には種を蒔き、芽が出て…面倒を見て…育てつづけていく。

だけど恋をして関係を育むということは、
ずっと狩り続けているだけでは持続しない。
また待っているだけではその関係は育たない。
狩猟民族は農耕民族の待ち育む心が必要だし
農耕民族は狩猟民族の近づき努力する行動力が必要。

もっとも実際恋に盲目になっている時にはきっとこんな事は考えない。