普段もてなす側の私がもてなされて思ったこと

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旅行に行って…
楽しかった、
いい思い出になった。
料理が美味しかった。
大抵はそんな感想。
だけど、何故だか今回は
カルチャーショックを受けて帰ってきた旅行だった。

宿のサービスが取り立ててすごく良かったという訳ではない。
部屋までのご案内は少し待たされたし、仲居さんは灰皿を下げたきり忘れていたり
テレビが不調だったり・・・。
でもそれらを全部帳消しにする何かがあった。
多分それは建物だったり温泉だったりそこにある風格とか雰囲気とか。
ゆったりと流れる時間に少しぐらい待ってもなんとも思わなかったし
テレビが不調だったことも、交換しにやってきた施設係におじいちゃんもにこやかだったし
仲居さんも少し抜けてるけど、それを帳消しにする抜群の笑顔があった。
そしてピカピカに磨かれたその古い建物がただ古いんじゃなく、
それが他の何にも変えられないいい味を出していた。
多分そのマジックにすっかり私は魅了されて
たった1泊だけだったのに宿のファンになって帰ってきた。

自分が普段ゲストから言葉を頂く立場にある。
名前を覚えてくれて嬉しかった。
笑顔が素敵だった。
それらを実際に体感して、ああなるほど、こういうことか、と。
もてなされる側に立ってみて、おもてなしがどういうことなのかほんの少しだけ分かった気がした。

それらは全て当たり前の事だった。
ゲストを迎える建物をピカピカに磨き上げること。
近い距離でお話するように心がけること。
笑顔で接すること。
だから取り立てて演出なんて要らない、それなのに不思議なことにそれだけで満足する。
だけどそれは意外に難しい。
建物は見える所だけ磨いても駄目だ。
私はどうも天井の脇のクモの巣とか、部屋の隅っこに落ちた小さな埃。
人が見ない場所を粗捜しのように見てしまう。
大抵どこの宿もホテルも飲食店も、
どこかに落ち度があって、あぁここが汚れてる、行き届いてない、そう思う何かがある。
今流行りのモダンな造りの建物ほど意外に隅っこに埃の山が出来ていたりするものだ。
だけど、びっくりするぐらいそれがない。
廊下はきしむし廊下の壁から水が涌き出そうな場所もある。
だけど、クモの巣1つないし磨き上げられている。
だから古いがちっとも汚いと感じる要素がない。
笑顔で接することだってそうだ。
自分では気が付かないうちに毎日同じ仕事の馴れからいい加減に接してしまう事だってある。
そういう部分がまるでなかった。

帰ってきて、「もてなす側」が嬉しいことをしようと思った。
毎日毎日礼状を出す側の私が、初めて宿に礼状を書いた。
自分が見たまま、感じたままの素直な気持ちで「ありがとう」と。
なんだか自分がもてなす側の宿屋の仕事をしていて良かったとしみじみ思った。
多分、もてなす側の気持ちを知らなければ、こんな気持ちにはならなかっただろうと思う。
そしてこれからもこの仕事を続けていこう、と。
何故だか強い決意を持ち、出勤。
…そして頭から煙が出そうな勢いでシャカリキに仕事をした。
(だからそんな風に気負って仕事したら駄目なんだって。)

多分こうしてまたシャカリキに日々仕事をし、頭の回線がショートしたらまたいくんだろうと思う。
なんとなくリセットできる場所を見つけられた気がする。