なんとなくいじめがどうとか考えてみる。

会社で誰かの陰口を聞いたときに
あの人は誰とも仲良くする人がいないんだって、とある人はそう言っていた。
考えてみたら、私もそうだ。
特別悩みを相談する友達や休みの日に
自分から誘って約束をして出かける気の置けない友人は会社にいない。
だけど、私はそれを悲しい事だとも寂しい事だとも思ってない。
ただ合う人がいない、それだけのことだ。

学生の頃私はいじめに遭ったことがある。
そのことで学級裁判みたいに女子グループに吊るし上げられたこともあるし
なぜお前は皆と仲良くできないのだと
担任になぜだか往復びんた(!)を食らわせられたこともある。
まとめられない馬鹿な担任はそのグループのリーダーに
表向きだけ仲良くする演技をしてほしいと進言し
しまいに私はもう誰も信じるもんかと人間不信に陥った。
結局他の理由で学校を転校したのでその騒動は終息したのだが
それこそ今そこここで頻発してるいじめ自殺に繋がってもおかしくないような経験をした。
ちょうどその頃皆がどのグループの誰と仲良くするかを必死に考えているような時期に
私は自分の立場を守るのに躍起になる大人とか、人間関係の脆さとか
なんかとにかくいろんな打算めいた暗部を見てしまい
人を信じることとか人と付き合うこととか
そんな深いことを自分の心の準備もないのに否応なしに考えさせられたせいで
人間関係を築くのが正直今でもちょっと苦手だったりする。

でも別にそれがトラウマだとかそういう話じゃない。

むしろ私はそれで一歩引いて人間関係を見る癖がついた。
みんなそれぞれの感覚で動いていて、そしてそれぞれ歩んできた道、歩んでいく道がある。
感覚が違う人間、答えが違っても当然だと思うから自分と意見が違うのは当然のこと。
だからこそただ意見が同じ事に安心して馴れ合うグループが苦手で
その関係が妙にいびつなものに思えてならない。
大抵その意見が同じ事に安心するというのは、誰かの陰口だったりすることが多い。
むしろこの人は『寄らば大樹の陰』、いわば強い意見に同調しているだけじゃないかとか
そんな冷めた目で見てしまう。
その馴れ合うのが好きな人たちから見て
誰とも同調しない私は掴みどころのない人間だと取られる事が多い。

一歩引いて見るその癖は仕事でゲストと接する上ではすごく役立ってる。
だけど、一歩引いて誰かと付き合う私は、逆に言えば一歩踏み込んで誰かと付き合うのは苦手だ。
人付き合いが苦手な人間が接客業というのも不思議な話だけど、
人が嫌いな訳でもないし人と接するのは好きだ。
多分これがどこへ行っても私が変わり者だと言われる所以なんだろうな。
そんな変わり者だと言われる自分は嫌いじゃない。
私は私の道をゆく。

その目の前の大樹の陰に寄らず、自分の足で森を歩む勇気があったら
大樹だと思っていたそれは
ただおしくらまんじゅうみたいに自分で立てない小さな木々の集合体で
大きく見えていただけだって気づくと思うんだけどな。
もっとも私はそれに気が付いたのは
そのおしくらまんじゅうから弾き出された結果見えた、というだけのことだけど。