ぬっこ流 物事の考え方のこと

ある人は私を合理的で非情な面があると言う。
ある人は私を優しいと言う。
それは矛盾しているといえば矛盾している。
でも多分それは私の人や物事に対しての捉え方や考え方のせいだ思う。

抽象的な話になるが・・・。
私はあわて者だ。
そういえば、小さい頃は『落ち着きがありません』と通知表の評価欄に毎回書かれていた。
そして、昔は自己主張が強いばっかりに他の人と衝突することも絶えなかった。
それが自分にとっていい結果を招かない事は、痛いほど経験している。
そんな中で、私なりに物事を冷静、客観的に見なきゃ、と。
そう考えて行動するうちに、いつの間にか三方向から考える癖がついていた。
それがいいかどうか、という話はさておき。

ひとつは自分自身の考えも相手の考えも除いた第三者的な物事の見方。
その物事が最もいいように進んでいくためには、という答えは
時に自分や関わる他の人に対して、
負担を強いるものだったり、また非情な決断だったりもする。

もうひとつは徹底的に相手軸で考えて、
自分自身の考えと全く異なり受け入れられない事であっても
ひとまず自分の主観は完全に除いて
相手の考えや行動はどうしてそうなったのかを考える。

そして最後に自分はそれに対してどう思うか、自分はどうしたいのか。
その物事に対しての自分の主観。判断。

この三方向から考えてどうしたらいいのか。どうすべきか。
そんなふうにして目の前の問題に対しての答えを導き出しているように思う。
相手と話す上で、自分はこう思う、という考えだけで話せば、
時に平行線で妥協点は見出せなくなる。
だけど相手はどう思うのか、どうしてこういう行動をしたのかを
一度受け入れる事で、どこかで妥協点は見出せないものかなぁ、と。
(それで妥協点が見出せない事も多いけど)

でも、皆が皆、こんな風に目の前の問題を捉えるとは限らない。

自分軸でのみ物事を捉える人から私を見たら、
相手軸で考えた私の答えを聞いて、優しいと思うだろう。

相手軸でのみ物事を捉える人から私を見たら、
時に冷静だと思うだろうし、場合によっては非情だと思うだろう。

また、第三者的な目で見る私を見て、
まるで人事のように話す、と最初から理解されないかもしれない。

視点をあちこち変えてひとつの物事を見るせいで
相手の立場になりすぎたり、また自分の考えが相手に伝わりにくくなったり
時にこんな物事の見方は誤解を生みやすかったりもする。
いずれにしても冷静な判断を下す、というのは難しい。

例えば、自分軸でのみ物事を考える人が、相手のために何かをしたとする。
相手から思うようなレスポンスがなかったら、
私はこれだけ相手のためにしてあげたのに、と腹立たしく思うかもしれない。

相手軸でのみ物事を考える人は、基本的に相手のために何かをすることを厭わないので
気がつかないうちに、必要以上に自分を犠牲にしてしまっているかもしれない。

お客様に対して、何ができるのか?
そう考える時、大抵私は相手軸で物事を考える。
と同時に第三者的な目でも物事を考える。
自分軸ではあまり考えていないように思う。
だから、お客様にとってどうあるべきかと考えた時にそこまでするか?という行動に出ることもあるし
逆に最低限の案内のみでそっとしておくかもしれない。
三者的な目で見て、相手の言い分のみ全部鵜呑みにするのではなく、
やんわりお断りしたり別の提案をすることもある。

自分が『してあげたいと思う』から、するサービスは、
相手にとっては時に押し付けでしかなくなってしまい、それは結果的にサービスではなくなる事もある。
また私たちの仕事は自分が『してあげたいと思わない』お客様に対しても
同じサービスをしなければいけない。
自分がしたいか、したくないか、というのは、仕事として接客する事とは別の事だ。

久しぶりに、家でお湯を張ってゆっくりお風呂に浸かりながら
そんなことをぼんやり考えた。
そういえば、こんな風に家でゆっくりすることって久しぶりのような気がする。
1日休んで週末に向けてまたドタバタが続いていくけれど
たまにはこんな風に立ち止まる事も大事。


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ちなみに今の私の課題。
人の話をよく聞くこと。早合点してさえぎらないこと。
まるで小学生の通知表の通信欄みたいな内容だ。

でも最近思うのだが、子どもの頃に言われるようなこと。
 挨拶をきちんとする。
 素直に感謝する。
 間違えたらきちんと謝罪する。
そういう事をちゃんと出来ている人って意外と少なくありませんか?